張家界—少数民族
居住地域
主に湖南、湖北、四川の3省が隣接している地区に集中して住んでいる。
言語
漢・チベット語系、チベット・ミャンマー語派に属するトゥチャ語を使っている。南部と北部の2種の方言がある。長期にわたって漢民族とともに生活してきたため、ほとんどの人が漢語を使い、トゥチャ語を使う人でも漢語に通じている。トゥチャ族の人たちは漢語を使っている。
信条
トゥチャ族の人たちは祖先を崇拝し、多くの神を信仰する。
トゥチャ族は長い歴史をもつ民族で、その祖先は早くも2000年前から今の湖南省西部、湖北省西部一帯で生活し、その他の少数民族のように「武陵蛮」、「五渓蛮」と軽蔑されていた。宋代以後「土丁」、「土民」、「土兵」などと呼ばれた。漢民族の人たち多数移住してきてからは、「トゥチャ」が民族の称呼として現れた。トゥチャ族の人たちは自分たちのことを「ビツカ」と称し、「地元の人」という意味である。新中国成立後、民族識別作業が行われ、長期にわたって承認されなかったトゥチャ族は単一の民族として認められ、1975年に湖南省西部トゥチャ族ミャオ族自治州、1983年にはさらにまた湖北省西部トゥチャ族ミャオ族自治州が設置され、その後また酉陽、秀山、石柱、長陽、五峰、印江、沿江など民族自治県が設立された。トゥチャ族は漢民族の影響を多く受けており、農業が発達し、経済の発展が速く、文化教育が進んでいる。トゥチャ族の人たちは風光明媚の地で暮らしつつである。
苗族(ミャオ族)
居住地域
主要な居住地域は貴州省だが、雲南省、湖南省、四川省、重慶市、広西チワン族自治区、湖北省、海南省など、広い地域に居住地がある。また、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどにもミャオ族の居住地域がある。
言語
ミャオ語を使い、この言葉は漢・チベット語系、ミャオ・ヤオ語族、ミャオ語派に属する。ミャオ語は湖南の西部、貴州の東部と四川、貴州、雲南という三大方言がある。大方言の中に小方言の分支がある。さまざまな民族がともに居住している地区のミャオ族の人たちは、漢、トン、チワン族の言葉を話すことができる。以前ミャオ族には統一の文字がなかったが、1956年に、4種類の方言のある表音文字を創出した。
信条
ミャオ族の人たちは万物に霊魂があるとする原始宗教を信仰している。
ミャオ族は中国では長い歴史をもつ民族の一つであり、早くも4000年前の史籍の中の「南蛮」と称されていた氏族あるいは集落についての記述の中にミャオ族の祖先についてのことにも触れられたものがある。古い伝説と伝記の中で触れられている黄帝、炎帝と合戦したり講和したりした蚩尤は、ミャオ族の人たちの祖先とみなしている人たちである。各地に分布しているミャオ族の人たちは自分たちのことを「牡」、「蒙」、「毛」、「果雄」、「帯叟」などと称しており、また一部の地方ではその住んでいる土地、服飾などによって、「ミャオ」の前に「長裙・ミャオ」、「短裙・ミャオ」、「長角ミャオ」、「赤ミャオ」、「黒ミャオ」など異なった名称が用いられている。漢の頃からミャオ族の人たちは湖南省の西部、湖北省の西部、四川省の東部、貴州省の東部に住むようになり、戦乱、飢饉、疾病および過剰な出産、耕地の荒廃などによって、あちこち移住し、言葉、服飾、頭の飾り、習慣が大きく異なるようになり、社会の発展もアンバランスになる。ミャオ族の人たちは水稲、トウモロコシの栽培を主とし、オオアブラギリ、アブラナなどの経済作物とサンシチニンジン、オニノヤガラ、杜仲などの貴重な漢方薬材の栽培にもたずさわっている。
銀の飾りを多用した民族衣装、歌垣や竜船競渡などで有名。祭りには大小の芦笙が登場する。
勤勉な苗族の女性が、服飾の華やかさを極めています。 苗族の刺繍は、最も綺麗な刺繍芸術品と好評を得ています。花や、山々の風景、そして、太陽、蝶々など民族のシンボルがすべて、細かく縫われています。 苗族の女性は、派手な銀細工で、自分を飾っています。冠、ネックレス、腕輪、鈴など、頭の上から足先までもれずにつけられ、全身をピカピカの銀色に輝かせます。精美さのほか、民族のシンボルとなる蝶々などや、重要な歴史ストーリーも、この銀細工に表現され、文化の伝承の役割を果たしています。
主に陸稲やトウモロコシの栽培に従事し、麻などの経済作物とサンシチニンジン、オニノヤガラ、杜仲などの貴重な漢方薬材の栽培にもたずさわっている。
紡織、ろうけつ染め、刺繍、首飾りなどの工芸品は内外に広く知られている。中でもろうけつ染めは1000年以上の歴史がある。
白族(バイ族)
居住地域
主に雲南省大理ぺー族自治州に居住し、その他は雲南省各地と貴州省の畢節地区、四川省の涼山イ族自治州、湖南省の桑植県に分布している。80%以上は大理ペー族自治州に居住している
言語
ぺー族の言語を使用し、この言語は漢・チベット語系、チベット・ミャンマー語派、イ族語分支に属し、南部、中部、北部の3つの地区の方言がある。白族の祖先は新石器時代から石器を使い自ら農業、漁業、狩猟を行って生活しており、とても発達した文明を築き上げました。
信条
ペー族は花と虫を信仰し、自然の中のもの、例えば、風、雪、花、月などをとても大切にする民族です。女性の頭飾りにはその部分ごとに色々な意味があり、飾りの一番上の部分は雪を表しています。横に垂れる白のヒモは風のイメージです。独身の女性の付けるヒモは長く、既婚者は短めになっています。飾りの赤の部分は花のイメージになり、飾り全体の形は月を表しています。
ぺー族は長い歴史をもつ、文化が発達した民族である。ぺー族の先祖はずっと前からアル海湖地区で生活していた。考古学的発掘が行われた蒼山・アル海湖遺跡、海門口遺跡によって、新石器時代以前からアル海湖地区で生活していたことが明らかになっている。ぴかぴかに磨かれた石器を使い、簡単な農業、牧畜業、漁業、狩猟にたずさわり、穴居生活をおくっていた。2000余年前から金属の道具を使い始め、農業、牧畜業を発展させた。西暦2世紀に、漢の武帝が蒼山・アル海湖地区に郡県を置いた。8世紀から13世紀頃まで、この一帯には前後してイ族、ぺー族の先住民を主体とする奴隷政権南詔国とぺー族段氏を主体とする封建領主制政権大理国が現れた。90%以上のぺー族の人たちは農業に従事し、農業の発展レベルはかなり高いものであった。ぺー族の人たちは自分たちのことを「白子」、「白伙」、「白尼」と呼び、その意味はぺー族の人たち、ということである。1956年にぺー族の人たちの願いによって、呼称は正式にぺー族と定められた。ペー族のお祭りは“繞三靈”“石宝山歌会”“本主節”“遊海会”及び、“三月街”や“松明節”などたくさんある。
白族の伝統民居は井幹式住居、石造住居、院落式住居がある。
井幹式住居は日本でいう校倉造りで、実在する住居は少ないという。
石造住居は、農家に多く、その石材は、近くの川で採れた卵石とよばれるものでつくられている。
院落式住居は白族民居の中で一番多く漢風坊院とよばれている。漢風坊院は、白族の伝統居住と漢の時代の伝統住居を結合したもので、白族の漢化とあわせて形成されたものである。その住居の配置は三坊一照壁が多い。
照壁は白族民居の重要な構成要素であり、典雅がデザインが多い。
侗族(トン族)
居住地域
貴州省、湖南省と広西チワン族自治区に隣接する地域に分布し、その中の貴州省黔東南ミャオ族トン族自治州は主な居住域である。
言語
トン族の言葉を使用し、漢・チベット語系、チワン・トン語派、トン・スイ族の言語に属する。南北2つの方言がある。トン族はもともと自民族の文字を持たず、漢字を使っている。1958年にトン族の南部方言を基礎とし、貴州省榕江の言葉を標準音とし、ローマ字を採用してトン族の文字を創出した。
信条
トン族は多くの神、自然物を崇拝する原始宗教を信奉している。
トン族は中国の古代百越の一派から生まれ、秦・漢の時代に「駱越」と呼ばれ、魏・晋以降は「僚」と称し、トン族は僚の一部分であった。古代の文献では歴史上トン族を「洞人」、「畆人」、「洞蛮」などと呼び、自分たちは「甘」と称していた。宋の時代に「懍伶」と音訳し、明の時代以降は「畆僚」、「畆蛮」、「畆苗」と称し、あるいは「苗」と誤って称された。新中国成立後、トン族と呼ばれることになった。トン族の人びとは主に農業に従事し、うるち米の栽培を主とし、もち米がこれに次ぎ、稲田で魚を養うことに長じている。トン族はまた林業に従事し、スギ、油茶の栽培でよく知られ、油茶で客をもてなすのはお客様を大切にするトン族の人びとの習わしである。トン族の女性は綿の栽培に長じ、自ら布を織り、染めている。トン族の人たちは誰もが歌を歌うことができ、それを誇りとし、人々はトン族の住む地域を「詩歌の大海原」と称している。トン族の笙と笛は中国の伝統楽器の一つとしても有名。トン族の住む村の中の鼓楼と風雨橋はその独特な風格をもって、トン族の人たちの建築芸術の様式を示すものである。礼儀正しく、老人を敬い幼児を大事にし、人を助けることが好きで、橋を修繕し道を補修し、公益事業を重視することはトン族の人びとの伝統的な習俗と美徳である。